Cuba/Okinawa

波多野監督からのメッセージ --- サルサとチャンプルー Cuba/Okinawa:波多野哲朗監督作品

波多野監督からのメッセージ --- キューバと沖縄をつなぐ回路

この映画のタイトルには、しばしば疑問が投げかけられる。
なぜ、サルサとチャンプルーなのか? なぜキューバと沖縄なのか? と。


OkinawaからCubaへと向かった人びと

波多野哲朗  

20世紀のはじめから、日本は世界各地に大量の移民を送り出してきたが、ごくわずかな成功者を除いて、ほとんどが不遇の生涯を送ることになった。土地を売り、あるいは借金をして渡航費を調達し、長く辛い航海の末にようやく現地に到着してみると、手のつけられない荒地での農作業や、劣悪な労働条件での坑夫の仕事が待ち受けていた。このとき移民たちは、はじめて自分らが移民会社の宣伝文句に騙されて連れてこられたことに気付くのだが、言葉も通じない不自由な環境ではただ忍従するほかはなかった。日本政府もまた、こうした状況を看過していた。移民は、まさに棄民に等しかった。こうした移民の悲惨な状況については、すでに多くの著作が語っているのでここでは繰り返さない。ただ私は、もっとも多数の住民を送り出した沖縄と、たった1人の「成功者」も出すことのなかったキューバ(移民)とのつながりに、特別な関心を抱くことになった。

日系キューバ移民の足跡をたどりはじめてすぐに気付いたのは、沖縄県出身者の圧倒的な多さであった。キューバに移住した日本人(一世)の総数は1,143名であるが、そのうちの193名が沖縄県出身者で、これはむろん全国1位である。ちなみにキューバ移民の出身府県別人数の順位を示すと下記のようになる。

1. 沖縄196人17.1%
2. 広島149人13.0%
3. 熊本145人12.7%
4. 新潟135人11.8%
5. 福岡84人 7.3%
6. 和歌山 75人6.6%
7. 高知38人3.3%
8. 福島32人2.8%
8. 長野32人2.8%
8. 岡山32人2.8%

これ以外の府県では極端に人数が少なくなって、0人すなわち1人も送り出していない県が7県もある。一方、上記10位までの県からの移民だけで、全移民数の80.2%、5位までの県だけで61.9%を占めるという極端な不均衡である。しかしこうした不均衡な偏りは、キューバ移民に限らず、すべての国への移民の数にも見られる現象である。多少の順位の入れ替えはあっても、この10県がコンスタントに大量の移民を送り出してきたいわゆる「移民県」であることに変わりはない。

その中でも際立っているのが沖縄県である。沖縄県は、どこの国への移民に関しても、つねに1、2位を争う多数の移民を送り出している。そしてさらにその移民数を、府県の総人口との比率(「出移民率」)で見るならば、もはや沖縄に比肩する「移民県」はない。沖縄県立博物館の資料によれば、1940年当時(太平洋戦争開始前)の沖縄出身の海外在留者数は、沖縄の全人口の約10%、つまり沖縄県人の10人に1人が移民であった。そして現在もなお、海外在住の沖縄系移民の数は約36万人、その数は日系移民全人口約250万人の14%弱を占めている。

それにしても、なぜ沖縄だけがかくも突出して多数の移民を送り出してきたのか。その第一の理由は、言うまでもなく沖縄の絶対的な貧困である。とくに20世紀はじめの沖縄が陥った貧困は、今日でも見られるような本土との経済格差といった程度のものではない。日々の食事に事欠くようなどん底の貧困が常態化し、そこでは子どもらが幼くして奉公に出され、10代の女性が身売りに出されるといったことが、すこしも特別なことではなかった。そのような状況にあった当時の沖縄の人びとが、海外移住に生きる夢をつなごうと考えたのも無理はないだろう。1929(昭和4)年、沖縄出身の海外移民からの送金額は、総額198万6,000円であった。これはなんと沖縄県の歳入総額の66.4%にあたる。

しかし、移住の契機となったのは貧困だけではない。たとえば先の表でいえば、沖縄県はともかく、沖縄県以外の「移民県」が、日本の中でとくに貧しい県であるとは考えられない。たしかに、経済的な困窮は、すべての移民に共通する最大の要因・契機ではあるが、かといって困窮する者のすべてが移民になったわけではない。そこでは他のいくつかの要因がからみあって、それが人びとを海外へと駆り立てたのであった。沖縄の場合は、それらの要因がすべて重なっていたと考えるべきだろう。 

たとえば、沖縄では「地割制」が崩壊して土地の私有化がはじまったものの、与えられた土地はあまりに狭くかつ痩せていて生活が成り立たず、多くの農民はその土地を売却して海外渡航費にあて、出稼ぎに走るほかなかった。その背景に、ヤマトの軍隊に対する徴兵拒否と海外雄飛の精神の高揚があったことも見逃せない。また移民の指導者的な存在、さらに沖縄独特の血族的血縁的環境が、移民に対する不安を軽減していた。しかし何よりも、江戸幕府が鎖国政策を取っていた300年の間、琉球王国が盛んに海外諸国との交流を続けていたという歴史は、「移民」という概念そのものが、一般に国家間の移住と考えがちな本土の「移民」観とは、根本的に異なっているという土壌がある。

今から8年前の2000年3月、私は上野英信の著書『眉屋私記』に導かれキューバを旅した。それが今日にいたるキューバとの長い付き合いのはじまりであった。『眉屋私記』は、20世紀のはじめ沖縄県の名護地方にあった「眉屋」と呼ばれる貧しい一家の顛末記である。眉屋の嫡子であった21歳の山入端萬栄(やまのは・まんえい)は、貧困のどん底で離散しつつあった眉屋一家を救おうと、1907年移民としてメキシコに渡り、のちキューバに移住する。しかしついに帰郷の夢を果たせぬまま、ハバナで結婚して家庭をもち、1959年にその生涯を閉じた。上野英信は、山入端萬英からしばしば手紙を受け取っていた妹の山入端ツルに会い、彼女からの聞き書きをもとにこの名著『眉屋私記』を執筆した。おそらくこの書物は、一人の日系海外移民の生涯を記録したもっともすぐれた移民史の1冊に数えられようが、同時にこの書物は、移民という存在にとどまらず、日本の資本主義がその発展段階で生み落した多数の「離散する者」たち、「浮遊する者」たちの生き様を描いたという点で画期的な意義を持つ。すなわちこの書物は、語りの対象となる移民山入端萬栄のみならず、語り手としての妹ツルの波瀾に満ちた生涯を、さらにはかれらを取りまく離散した眉屋一族の全体、そして当時の沖縄を描くことで、日本という国家の底辺を生きたディアスポラたちの存在に光をあてたのであった。ディアスポラ、それは「正統な」歴史的記述が、その描写をもっとも不得意とする存在である。彼らはたえず揺れ動き、明瞭な輪郭を示さない。しかし上野英信という書き手は、いまだ書かれざる世界の闇、歴史のアポリアへと踏み込んでいった。

『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑い話』などの著書でも知られる上野英信は、以前から離散した炭坑労働者たちの行方を追って中南米諸国に出かけていたが、当時キューバには入国を許されなかった。思うに上野英信は、どんなにか山入端萬英が孤独な晩年を過ごしたというハバナの街を歩いてみたかったことだろう。「私の無念は深い」と上野は『眉屋私記』のあとがきに記している。 その上野がこの世を去って13年目の年に、私はキューバを訪ねた。当時は日本からキューバまで、2度の乗り継ぎを含む33時間の長旅だった。そしてようやく到着したハバナは、予想にたがわず魅力あふれる都市だった。そこでは、多くの社会主義国家で体験したような重苦しさが感じられず、あらゆるものが自由に混じり合い、その混合ぶりが独特の明るい雰囲気を醸し出していた。私はなんとしてもこの情景を、上野英信に見せたかった。もし上野が生きていたら、あの『眉屋私記』の続きをどう書くのだろうかと想像した。